あの恐怖を忘れない

2004年9月30日
もう書いてもいいよね。

5年前の今日、東海村で臨界事故が起きました。
私がこないだまで住んでいたところは、
事故が起きた場所から10km圏内でした。

あの年は9月になっても暑い日々が続き、
終わろうとするこの日もとても暑かった。

息子がまだ2歳で、外に出るには暑すぎた。
TVもつけずに家にいた。窓ももちろん開けていた。

3時過ぎごろだったろうか?

夫から電話で、
「東海村で放射能漏れがあったらしい、外には出ないで」
・・・と言われた。
その時はまだそんなに重大事であるという印象ではなかった。

でも、事態は深刻だった。
臨界が起きた現場では、従業員3人が被爆し、
もう誰も近づけない状態だったのだ。

詳しいことは全く解らないまま、
家の中で同じ言葉を繰り返すニュースを見続けた。

何も出来ない。
得体の知れない原子力の暴走に怯えた。
放射能は目に見えない。色も匂いもない。
どこまで危険が迫っているのだろうか?

夫が帰ってきたのはいつもと同じ位の時間。
東海村より北にある職場から帰るには、
事故現場から2kmくらいを通る常磐線を使うしかない。

雨も降っていたと記憶している。
そしてそれは、
原爆の後の「黒い雨」を連想させて不気味だった。

ニュースをつけっぱなしにしていた。

22時過ぎ、ニュースステーションで、
「常磐線が運転停止になった」という報道があった。
私ははじかれたように立ち上がり、
入浴していた夫に、
「ねぇ逃げよう!ここから離れないと危ないよ」
・・・と言った。

誰も暴走する核分裂を止められないのなら、
被害を最小限度に抑えるために、
危険地域は隔離されてしまうだろう。

鉄道が止まり、道路も閉鎖されれば、
私たちは危険地域で身動き出来なくなってしまう…。
その前に少しでも遠くに逃げなければ!
そう思ったのだ。

慌てて旅行バッグに数日分の荷物を詰め込み、
(どうしてそれまで気がつかなかったのだろう?)
急いで車に乗り込んだ。

この時も雨が降っていた。
放射能が含まれているかもしれないので、
極力濡れないように気をつけた。

暗い屋外は、いつもと変わりがなかったが、
ラジオのニュースだけが、緊急事態を告げていた。
半径10km圏内の住民に屋内退避の勧告が出されたという。

SF映画の劇中にいるような非現実的な感覚だった。

とにかく事故現場から少しでも離れようと南を目指した。

一時間半も走ったろうか?
土浦まで辿り着いたころには、
もう真夜中になっていた。

駅近くのビジネスホテルに宿を取り、
ようやく少し緊張がほぐれるのを感じた。
少なくとも、一番危ない場所からは離れたのだ。

翌朝の安堵感は忘れられない。
とにかく現場を離れる決心をしたのは、
正しい判断だったと思った。

私と息子は、電車で横浜の実家を目指した。

夫は土浦の友人宅へ行き、
事態を見守った。
とりあえずこの日、職場が休みであることは間違いないのだが、
その後、いつ出勤しなければならないか解らなかったからである。

午前中には、臨界が一応終息し、
最悪の状態は避けられた、という報道があった。

10km圏内の避難勧告が解除されたのは、
この日の夕方である。

この日も暑かったのだが、
友人の話では、クーラーもかけられず、
窓を開けることも出来ず、
地獄のような状態だったらしい。

食糧の買い置きのない家はどうしていたんだろうか?

息子と私は完全に安全が確認されるまで、
実家にいようと思った。

放射能技師の知り合いも、それを薦めた。
結局、一週間ほどいて、自宅に戻ったのだが、
その時も「まだこちらにいたら?」と言われたくらいである。

その後、事態が明らかになるに連れ、
危険な放射性物質のずさんな扱いが原因であることがわかった。

危険な現場には、その本当の危険を知る人ではなく、
下請けの業者が入るそうだ。
彼らにはその危険を詳しくは知らされていないらしい。

規模の小さい放射能漏れは日常茶飯事だという話も聞いた。

住んでいた地域には原子力関係の施設が幾つもあった。

私は心底恐ろしかった。

何かあれば、誰も手がつけられなくなる禁断の物質を使って、
たとえば電力を起こし、便利な生活が出来たとしても、
その裏側にはこうした危険が潜んでいるのだ。

人間は謙虚になって、そんな危険な行為から手を引くべきだ。
今回のことはその警告ではないのか?

一刻も早く、その地を去りたかったが、
勤め人の悲しさ。転勤にならないとそれは無理なのだ。
春に転任してきたばかりでは、不可能に近かった。

その年の暮れに、ずっと重症だった被害者が亡くなった。
私の近所に、彼と中学校で一緒だったという人がいた。

翌年の春くらいまで、影響は続いた。
県内の農産物が市場から締め出されたり、
買い控えられたりした。
私も出来れば他県産のものを買うようにしていた。

息子は春に幼稚園に入園。

2000年問題の危機が騒がれた時も、
とにかく原子力関係の施設から離れておこうと、
千葉で年越しをした。

このことを忘れるまい、とする私の周りで、
緊張した空気はだんだん薄れていった。

幼稚園で一緒の人たちがそこに家を建てると聞いて、
私ははじめ耳を疑った。

その辺は確かに便利なところで、
東京圏からくらべれば格段に安く家が持てる。

ここには大きな企業がいくつもあって、
その会社に勤める人たちは、事実上そこから離れられないようであるが、
自ら選んでこの地で一生を過ごそうと言うのだろうか…。

私は絶対厭だと思った。
私も早く落ち着きたいが、
住むのなら安全な土地に住みたい。
ここからは早く離れたい。

親しい人が家を建てると聞いては、
「本当にいいの?あんな事件があったのに?」と、
いう言葉を呑み込んだ。

言えないよねそんなこと。

増して原子力関係の会社に勤める人には…。

家を建てる人たちは後を絶たず、
小学校入学前くらいにその動きはピークに達した。
知り合いの中で30軒くらいは聞いただろうか?

ずっとその地を離れたいと願っていた私たちは、
あの事件から4年半を経て、
ようやく移動することが出来た。

離れてみて、近くに危険な施設がないことの安心感を、
ようやく味わうことが出来た。

住んでいる地域を受け入れられないことは不幸である。
この4年半は正直辛かった。

私は、あの事件のこと、
あの恐怖の夜を忘れてはいけないと思う。
今でも決して忘れるまいと思っている。

でもそう思う度に、
選んでその地に住んでいる友人達に対して、
胸の痛む思いがあるのだ…。

参考:http://news.kyodo.co.jp/kikaku/tokaimura/n-doc.html

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